吉本秀之、「ロバート・ボイルにおけるベイコン主義」

 王立協会に象徴される17世紀英国の科学は、ベイコン主義的であった、そして、そのベイコン主義の代表格はロバート・ボイルであったという評価は、科学史の世界において根強く存在している。しかしながら、ボイルの生涯を子細に追っていくと、彼が最初からベイコン主義者であったわけではないことがわかる。今回の発表では、ボイルがベイコンのどの著作をいつごろどう読んだのかに着目することで、彼のベイコン主義の内実に迫る。

 1626年に死去したベイコンの科学的著作には、『学問の進歩』(1605, 増補ラテン語版1623)、『大革新』第2部(通称「新機関」1620)のように生前に出版された著作もあるが、死の翌年出版された『森の森、または自然誌』『ニュー・アトランティス』(1627)のように死後出版されたものも少なくない。そのなかで重要なのは、アムステルダムで出版された『自然と宇宙の哲学』(1653)やローリーの手による『遺稿集』(1658)である。
 1627年生まれのボイルは、22歳の夏(1649)、科学に目覚め、医化学の実験研究に没頭する。若きボイルのまわりには、ハートリッブという、知の変革と社会の変革を同時に求める大陸出身のベイコン主義者がいて、彼に知的刺激を与えた。しかしハートリッブのベイコン主義は一般的性格のもので、ボイルの科学的方法論の形成に影響を与えることはなかった。
 初期の草稿、書簡、出版物を丁寧に追いかけていくと、ボイルがベイコンの著作を読み始めたのは、最初の出版物の原稿を用意している頃(1650年代後半)からであったことがわかる。この段階でのベイコン利用は、科学の内容(個別事項)にかかわるものであった。例えば最初の科学的著作『空気のバネ』(1660)では、2年前に出版されたばかりの『遺稿集』から『濃と希の誌』におけるベイコンのスイギンの比重測定を引用している。対して2番目の科学的著作『いくつかの自然学のエッセイ』(1661)では、精読を控えていた「新機関」をきちんと読み始めたことを告白し、自分の著作がベイコンの『森の森』の続編となることを目指すと宣言した。しかし、現場の実験研究者であるボイルにとって、ベイコンの記す自然誌・実験誌の作成・編纂方法は、現実にあまり使えないものであった。ボイルは、ベイコンを下敷きにして、自然誌・実験誌の方法を独自に組み直す作業に従事し、それを1666年の手紙で公表した。

文献

  • Peter Anstey and Michael Hunter, “Robert Boyle’s ‘Designe about Natural History,’ ” Early Science and Medicine 13 (2008): 83–126.